IRC Monthly に、キャッシュレス化について寄稿しました。
キャッシュレス化は進んだか
京都大学公共政策大学院教授
株式会社伊予銀行顧問
岩下直行
日本は長らく現金決済が主流といわれてきたが、政府の積極的なキャッシュレス化推進策を受けて、現金以外の様々な決済手段が普及するようになった。クレジットカード、デビットカード、電子マネー、コード決済を合計した電子決済金額は、2015年から2020年の5年間で、55兆円から87兆円に6割も増加している。
キャッシュレスとは「現金を使わない」という意味だから、キャッシュレス化が進むということは、電子決済の利用率が上がると同時に、徐々に現金が使われなくなり、現金が減っていくことを意味するように思える。
しかし、実態は全く逆である。日本で流通している現金(紙幣と貨幣)の量は増え続けている。2021年末の現金流通高は前年比3%増の127兆円。その名目GDP比率も一貫して上昇しており、2000年は12%、2010年は17%であったものが、2021年には23%に達している。つまり、電子決済の普及は進んでいるけれど、キャッシュが少なくなった訳ではないのである。
現金流通高を人口で割ると、国民一人あたり100万円の現金を保有している計算になるのだが、これは日常的に財布に入れる金額としては大きすぎる。実態としては、いわゆるタンス預金として、多額の現金が個人の自宅に保管されていると考えられる。
キャッシュレス決済がキャッシュを減らさないというパラドックスは、日本だけの現象ではない。国際決済銀行の調査チームが2018年に発表したレポートによれば、先進国も新興国も、キャッシュレス決済は増えているが、キャッシュも増えているのだ。2000年以降、現金流通高のGDP比率が減少しているのは中国とスウェーデンぐらいで、欧米主要国もその他の新興国も、現金流通高は増加を続けている。その背景には、リーマンショック以降の金融不安や預金金利の低下により、人々が現金保有を選好するようになったことが挙げられる。日々の決済には電子決済が用いられるが、富を蓄積する手段して現金が使われる度合いが高まったということだろう。
この傾向は、2020年以降に更に加速している。コロナ感染症により、世界的に個人消費が落ち込んだ一方、多くの給与所得者の収入は減少しなかった。その結果、収入から消費を引いた残りである貯蓄が増加することになったが、その多くが現金として個人の手元に保管されたのだと考えられる。
我が国でのキャッシュレス決済推進においては、キャッシュレス決済が進展すれば世の中で流通する現金自体が減少し、それが社会の効率化につながるといった主張が多かった。しかし、現実はそれとは異なる方向に進んでいるようだ。もちろん、キャッシュレス決済が普及すれば、商店での支払い手続きが効率化するし、様々な新しいサービスが提供可能になる。事業者が消費者の行動を分析するのにも役立つだろう。キャッシュレス化を推進することは引き続き必要だけれど、その意味付けについては再考が必要かもしれない。
(IRC Monthly 2022.6)