日経新聞で1年間にわたって続いた金融緩和の副作用についての定番記事「ゆるみとゆがみ」がとりあえず連載を終了したようだ。5月10日朝刊の記事の最後に、執筆を担当した記者の名前が並んでいたのがその区切りということらしい。
この連載を開始した当初、その記者の一人に京都の研究室まで取材に来ていただいたことがある。仮想通貨(今は暗号資産だが)の話が聞きたいと訪れた記者に、学生と議論した時の様子を話したのが、一年ほど前に記事として掲載された。私が説明のために使った「ビットコイン教」という言葉が、記者に気に入られたようだ。
その後も不定期で掲載されるこのシリーズのことは、割と気になっていた。5月8日の記事では、低金利の副作用が膨らんでいる実態として、具体的な道路や体育館といった公共事業の拡大事例が列挙されていた。こういう材料を突きつけられると、どこか遠くから地鳴りが聞こえて来るような気がする。金融政策を受講している学生向けのSNSのグループには、是非この記事を読んでおくようにとメッセージを書き込んでおいたほどだ。
一日置いて5月10日に掲載された記事の後編には、再び1年前に私が京都で取材を受けた時にお話ししたエピソードを使っていただいた。マクロ経済モデルで金利を内生変数として使うことに学生が違和感を感じているようだという話だ。かれこれ20年の間、日本の政策金利はゼロ近傍から離れていない。預金金利も、企業の借入金利も、極めて低い水準にとどまっている。需要と供給が価格メカニズムで均衡するという経済理論と、動かない金利という現実との間で折り合いをつけるのは、初学者にとって容易なことではないだろう。そんな私の説明が、連載の最後を飾るエピソードに使われたというのも、不思議な巡り合わせだったと思う。
「ゆるみ」とは世界的な金融緩和のことで、「ゆがみ」とはその副作用を意味する。具体的な副作用として、5月8日の記事では財政規律の緩みを、5月10日の記事では格差の拡大を描いている。規律が緩んでいるのは事実だろうが、現段階では、かつてのバブル経済のような明らかな資源配分の歪みを指摘するのは難しい。格差の原因だという指摘も、必ずしも因果関係は明確ではない。こんな副作用があるから金融緩和を止めるべきだ、とまでは主張していない連載だったと思う。
とはいえ、多くの人々が「ゆがみ」を実感するようになってから対応するのでは遅いのだろう。いろいろなところに現れている兆候を丁寧に観察し、健全な想像力を働かせつつ、適切なタイミングに適切な対応を取って欲しいという、政策当局への叱咤激励と受け止めるべき連載であったと思う。