日銀下関支店長 岩下直行
高橋是清は、明治時代から昭和初期にかけて、日銀総裁、大蔵大臣、総理大臣を歴任した偉大な人物だ。特に、大蔵大臣として日本経済を恐慌から救うために奮闘したことで名高いが、二・二六事件で陸軍の青年将校に襲撃されて亡くなった。その是清が、山口県下関市と深いかかわりを持っていることをご存じだろうか。
是清は、1893年、下関に新設された日銀西部支店の初代支店長に任命された。西部支店は、当時、日銀が大阪支店に続く国内2番目の支店として開設したものだ。
是清が14人の職員とともに、開業予定日の1週間前にやってきたのは、下関市南部町の一角に建つ建物だった。元は廻船問屋だった2階建ての家屋で、1階には問屋の営業場に用いられた大広間が、2階には船頭が寝泊まりする小部屋があった。さっそく是清が建物の内部を検分したところ、そのままでは日銀支店には適さない構造であることが分かった。そこで、突貫工事で改築を施し、設備を整備して、同年10月1日の開業に間に合わせたという。
日銀が関門地域に支店を開設したのは、主として九州方面の経済活動を支援することが目的であった。当時、九州から東京や大阪に農産物や石炭を出荷していたため、代金を決済するために現金輸送が必要とされた。ところが、多額の現金を輸送するのは手間がかかるため、必要なだけの輸送が行われず、現金の不足で金利が高騰してしまうのが常であった。このため、当時の山陽や九州の実業家は、全国平均よりも相当高い金利を払う必要があったという。
是清は、支店長に着任するとただちに、山陽と九州の金利を大阪や東京と同じ水準まで引き下げるよう尽力した。彼の自伝には、上司である監督理事と対立し、総裁の裁可を仰いでまでも、金利差を縮小させようとした様子が描かれている。
最近の研究によれば、日銀西部支店の開設により、資金決済が円滑化し、九州の金利と全国平均との差が3%強から1%弱にまで低下したことが分かっている。全国一律の金利体系は統一国家の基本である。是清らの努力の結果、幕末までは各藩ばらばらであった日本の地方経済が、ひとつの国家として統合されていったのだ。
是清は、下関で1年10カ月勤務した後、1895年に東京に戻った。1898年には、日銀西部支店は下関を撤退し、門司に移転してしまった。それから50年近く経った1947年、日銀は下関の別の場所に支店を再度開設した。こうした複雑な経緯があるため、下関における是清の活動は、地元でもあまり広くは知られていない。例えば、当時是清が勤務していた日銀西部支店跡地には、是清のゆかりの地であることを示す案内や石碑は一切置かれていない。
現在その地に置かれているのは「金子みすゞ終焉の地」を示す記念碑だ。実は、詩人の金子みすゞが下関で住んでいた書店・上山文英堂本店のお隣が、日銀西部支店(当時は百十銀行本店)であった。時代が30年も違うので、「高橋是清と金子みすゞが隣同士だった」というわけではないが、良く知られたこの二人の人物の史跡が隣り合って並んでいるところに、下関の歴史の奥深さがよく表れていると思う。
(2011.5.25日 山口新聞掲載)
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