日銀下関支店長 岩下直行
宝くじは、江戸時代の富くじの現代版だといわれる。富くじとは、主に寺社が修復費を集めるために許可を受けて興行した少額の賭けごとで、番号札を箱に入れ、錐を突き入れて刺さったものを当たりとしたという。これに対して現代の宝くじは、抽選の実施形態が異なるし、寺社とも関係がないので、富くじを直接の前身とするものとは考えにくい。では、宝くじの起源は何なのだろうか。
宝くじは、「当せん金付証票法」という法律に基づき、総務大臣の許可を受けた全国の都道府県と指定都市によって発行される。つまり、宝くじは地方自治体が発行しているのだ。しかし実際には全国のみずほ銀行の窓口で発売されており、抽選や当せん金の支払いもみずほ銀行が行っている。これは、地方自治体が事務をみずほ銀行に委託しているからだ。それにしても、なぜ他の銀行ではなくて、みずほ銀行なのだろうか。
みずほ銀行は、第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行の合併によって誕生した銀行だ。そして第一勧業銀行は、第一銀行と日本勧業銀行(勧銀)が合併した銀行だった。この勧銀が発行していた特殊な債券が、宝くじの直接の起源である。
勧銀は、農工業向けの長期融資を行うことを目的に1897年に設立された特殊な銀行だ。長期融資が基本であるため、債券の発行が認められ、かつ「割増金付き債券」の発行が唯一認められていた。この債券は、勧銀が抽選を行い、当選番号の債券を持つ者に対しては割増金付きで償還したので、人気が高かったという。
勧銀は戦時中、「割増金付き戦時債券」の発行を手掛けていた。そして終戦直前に、その債券から抽選による割増金の部分だけを切り離した「勝札」という名のくじを発行した。債券であれば抽選に外れても元利金の償還がある。これに対し、くじは外れれば紙くずになる、射幸性の高い商品だ。その分、販売価格が安くなり、購入者の裾野が広がった。
戦後になると、勧銀は「割増金付き建設貯蓄債券」と、抽選による割増金の部分だけを切り離した「宝くじ」の発行を開始した。当時の宝くじは販売価格が一枚10円で、1等の賞金は10万円だったという。その後、宝くじの方だけが残り、地方自治体が発行して勧銀が事務の委託を受けるという制度が確立し、現代のみずほ銀行に受け継がれているのである。
現在、宝くじの売上金の約四割は収益金として地方自治体に配分されており、当せん金として当せん者に配分されるのは売上金の約半分だ。だから、宝くじの販売価格は、数学的な「当せん金の期待値」に比べてかなり高いことになる。しかし、一夜にして億万長者になるという「夢」の値段と思えば高くはない。そう考えて、多くの人々が宝くじ売場に並ぶのだろう。
(2011.5.18日 山口新聞掲載)
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