日銀下関支店長 岩下直行
歴史の町、下関は、日本史の教科書にたびたび登場する。源平合戦における壇ノ浦の戦いや、幕末の攘夷戦争の舞台になったからだが、下関の名前が一番目立つのは、明治時代であろう。1895年にこの地で締結調印された日清講和条約が、「下関条約」と呼ばれているからだ。
下関条約の締結交渉が料亭「春帆楼」で行われたことは有名で、その敷地内には日清講和記念館が建っている。こちらを表舞台とすれば、裏舞台にあたるのが下関市中之町の引接寺(いんじょうじ)だ。来日した清国側使節団の宿舎となったのがこの寺である。
◆現在の春帆楼(中央)および日清講和記念館(右)
◆引接寺
116年前の1895年3月24日、春帆楼で交渉を終えた清国全権、李鴻章が輿に乗って宿舎である引接寺に戻ろうとしたときに、その門前で、群馬県出身の小山豊太郎という男に銃撃されるという事件が発生した。弾丸は李鴻章の左目の下に命中し、顔面にめり込んだ。撃たれた李鴻章は引接寺に逃げ込んだ。
講和交渉に訪れた使節団の代表が銃撃されてしまったのだから、大変な不祥事である。国際的な非難が日本に集まり、その後の講和交渉でも日本側が譲歩を余儀なくされたという。ただ幸いなことに、李鴻章の怪我は命にかかわるものではなく、引接寺内に留まったまま治療を続けた結果、傷は快方に向かったため、講和交渉が決裂するといった最悪の事態は回避された。
当時、下関市民から李鴻章へのお見舞いとして、大きなガラス水槽に海水を満たし、魚や蛸を入れて引接寺の病室に搬入したという話が伝わっている。下関市民にとっても、当地を訪れた外国の代表が傷を負わされたのは不名誉なことであり、その快癒を願う気持ちは強かったのだろう。
李鴻章は半月ほど療養し、顔面に残った弾丸を摘出しないまま、4月10日には講和交渉が再開された。李鴻章一行は、再度の襲撃を避けるために、山沿いの細い道を利用して春帆楼に通った。この裏道が今も残る「李鴻章道」である。交渉は順調に進み、4月17日、下関条約が調印され、李鴻章は下関を離れた。
銃撃事件の犯人、小山豊太郎はその後どうなったのだろうか。事件後ただちに逮捕された豊太郎は、山口地裁で無期徒刑の判決を受け、北海道の刑務所で数年を過ごしたが、1907年に恩赦を受けて放免され、東京に戻った。「李鴻章を撃った男」として周囲から一目置かれていた記録が残っており、戦後まで長生きしたという。
一方、李鴻章は事件の6年後に亡くなった。彼は、現代の中国では低い評価しか与えられていないらしいが、浅田次郎は小説「蒼穹の昴」で、彼を「清国の末期を支えるために孤軍奮闘した偉人」として描いている。歴史上の人物の評価は難しいけれど、72歳の高齢で、顔面を銃撃されてなお、必死に講和交渉に臨んだ彼の使命感には、敬服すべきものがあると思う。
(2011.3.23日 山口新聞掲載)
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