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現代における郷土愛のあるべき姿

東洋経済オンラインの「京都市民が「長男の京大進学」を喜ばない事情 」(仏文学者 鹿島茂と国際日本文化研究センター教授 井上章一による対談)が興味深い。私も親に家業を継ぐよう言われて聞かなかった口だから、ここで書かれていることは理解できる。

この対談で紹介されている、京都の町屋の旦那が語った、「われわれのところでは、子どもが京大に入ったら、近所から同情されるんや。…同志社に行けば、長く続いたブルジョワ同士のコミュニケーションがそこで培われるし、将来この街を背負っていく旦那にもなれる。京大なんか行ったらあかん」という台詞は生々しい。

現代の日本社会の建前としては、どこの大学に入ろうと、各々の人生は各々が自己決定すべきものだとされている。他方、どんな地域社会も、共同体を維持しようとする力が働くし、その構成員には一定の恩義と責任がある。それを美しく言えば郷土愛となる。

それが別の形で出現したのが、同じ東洋経済オンラインの「「田舎の長男」との結婚に絶望した彼女の告白」(フリーライター 菅野久美子)の記事だろう。この記事における「共同体を維持しようとする力」は恐ろしく野蛮に感じるが、根っこは一緒である。

私自身は、郷土を離れてしまった人間として、郷土に対する恩義を忘れ、責任を果たしていないことは自覚しており、申し訳ないと思っている。それでも、自分の選択を後悔はしていない。郷土も大事だが、もっと大きな公共のために尽くすことや、そのための人材を育成することも大事だと思うからだ。

むしろ、日本各地において、維持するべき共同体自体のルールや仕組みを上手に時代の変化に合うものに変えていかないと、無用の摩擦が生じ、維持することが難しくなるのではないかと私は考える。当の京都の旦那衆や、農村の隣人たちは、時代に合わせて変化した共同体ではなく、昔ながらの共同体をそのまま維持したいと考えているようだ。このギャップを埋めることは、今後の日本にとって、とても大事な作業になるように思う。