日銀下関支店長 岩下直行
江戸時代の山口県のことを長州藩というけれど、県全体がひとつの藩だったわけではない。萩の毛利宗家の本藩に加えて、長府、徳山、清末の毛利家が3つの支藩を形成していた。これに加えて、岩国の吉川家の所領が「岩国藩」と呼ばれることがあるが、その位置付けはちょっと説明が難しい。
初代岩国藩主の吉川広家が現在の岩国の所領を分け与えられたのは関ヶ原の戦いの直後である。広家はそれ以前から一城の主であり、徳川家康の信任も厚かった。このため吉川家は、幕府との関係では、将軍への拝謁や献上・拝領の扱いも、諸普請などの課役も、一般の大名並みであったし、江戸には藩邸を、大阪には蔵屋敷を構えるなど、江戸時代を通じて大名としての実力を持っていた。
しかし、萩の毛利宗家は、江戸時代のほとんどの期間を通じて、「吉川家の所領は本藩の一部であり、吉川家は毛利宗家の家臣である」と主張していた。岩国藩を長く悩ませた「家格」問題である。この結果、吉川家の当主は諸侯たる官位を与えられず、当時の大名の紳士録である「武鑑」にもその名が載せられなかった。
そもそも「藩」は、公式には明治時代に使われるようになった言葉なのだが、大名の所領とその支配機構を指しており、当主の格式が基準となるので、江戸時代の呼称としては、岩国藩ではなく岩国領と呼ぶほうが正確だともいわれる。
吉川家が家格を改めて他の3支藩の藩主と同格となるのは、江戸時代の最後の年、慶応4年3月のことである。幕末の動乱の中で、十二代岩国藩主吉川経幹(つねまさ)は、懸命に毛利宗家を助け、四境戦争でも幕府軍を撃退した。こうした功績を踏まえて、毛利宗家の推挙により、吉川家は諸侯に列せられ、名実ともに大名となった。もっとも、実際に家格が引き上げられたのは経幹の没後、十三代で最後の岩国藩主、吉川経健(つねたけ)の代であった。
現在、岩国の錦帯橋の西岸に、枝を真横に伸ばした大きな松が植えられており、「槍倒し松」(やりこかしまつ)の看板がある。その説明によれば、江戸時代の大名行列の先頭には「槍持ち」がいて、街道では槍を垂直に立てて進むが、他の大名の城下では槍を倒して通るのが礼儀とされた。ところが、岩国を通る大藩の中には、槍を立てたまま城下を通過する者がいた。これに憤慨した岩国の武士が、槍を倒さなければ城下を通れないように、わざと邪魔になる松を植えたのだと書かれている。
この逸話自体は、日光街道の宿場町、千住に伝わる「槍掛けの松」の話に似ていて、どこまで史実なのかは分からない。しかし、岩国藩が家格問題で苦労した経緯を考えると、そういう逸話が残ったことは不思議ではないと納得できるだろう。
(2011.6.22日 山口新聞掲載)
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